「壁は崩れた」   07.01   ヨシュア6:1〜11、ヨハネ6:20〜21

  旧約聖書の多くの出来事は、神の約束が必ず実現することを語りかけてきます。
ヨシュアに率いられたイスラエルが、エリコの町を手に入れた話もそうです。
エリコの町は高い城壁をもった要塞のような町です。神さまの約束してくださった土地に入ろうとしている
イスラエルの前に、この町が立ちはだかっていました。  この町を手に入れるのは無理としか思えなかった。
そのときに主は、はっきりとおっしゃいました。「わたしは、この町をあなたの手に渡す(口語訳では渡している)。」
信じられない言葉でした。無理という言葉が出そうになるその時に、主は問いかけてきます。

 目の前に見えていることを信じるのか、それとも私の約束を信じるのかと。  ヨシュアは、その時、我に返りました。
神が共に歩み、御手の内に包まれている自分であることを思い出しました。そして、神の言葉に従って、1週間
神の箱を囲んで町の周りを歩き続けました。この一見奇妙な行為は、み言葉(神の箱)を囲んで、礼拝しながら
(つのぶえは礼拝の時に使う楽器)歩くことでした。声を出さないのは、自分の言葉や知恵を横に置いて、
神に集中するためです。それを黙々と続け、7日目に賛美の声(鬨の声)をあげたときに壁は崩れました。

 私たちの生活にも、立ちすくみ、無理と叫びたくなるような壁が現れます。そんなとき、我に返り、神に愛され、
神に導かれている自分であることに気付かなければ進めません。壁の高さや、自分の力なさよりも、私たちを
救うとおっしゃる神の約束を信じるのです。
 神の言葉を抱え、角笛の音を聞きながら毎日を過ごし、7日目に賛美の声をあげる事。そのようなあゆみの中で、
救いを妨げる壁は神によって崩されていきます。

  
神は、私たちを神の民とし、御国の永遠の命を与えるという約束をしてくださいました。
これを疑う必要はもうありません。 これを妨げる私たちの罪、死という大きな壁がありましたが、この壁はすでに、
御子の十字架と復活によって崩されてしまっているからです。